普通車 貸切料金 15,600円
市内~大浦天主堂~グラバー園~オランダ坂~孔子廟~出島商館跡~思案橋・丸山~崇福寺~眼鏡橋~諏訪神社~二十六聖人殉教地~片足鳥居~原爆資料館~平和公園~如己堂~浦上天主堂~市内
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大浦店主堂 日本最古の木造教会
元治元年(1865年)フランス人神父フューレ、プチジャンの両神父の努力により在日、フランス人のための教会として献堂式が挙行されました。本来、この大浦天主堂は日本で二番目に建造されたものですが、日本初の横浜天主堂が、大正12年9月1日の関東大震災で消失したため、日本最古の天主堂となった次第です。
浦上潜伏キリシタンが、プチジャン神父に名乗り出て、約250年ぶりに日本カトリックの復活が実現したのもこの大浦天主堂での出来事でした。正面に設置してあるマリア像は、信徒発見の記念であり、慶応元年3月17日と記してあります。
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グラバー園 居留地時代の風情が残る
長崎の数ある名所の中でも、是非行っていただきたいお勧めは長崎市内が見渡せる絶景な丘にある、トーマス・グラバーさんが住んでいたグラバー邸です。イギリスの貿易商人であり、人を殺す道具(鉄砲など)を運んで来たため「死の商人」とか「禿鷹の様な商人」などと呼ばれましたが、その後の日本のためにはなくてはならぬ偉大な人だったのです。
三菱造船所、高島炭鉱、私設電話、キリンビール、トロール漁業、日本青年(伊藤博文ねど)の英国留学援助など全て日本初の事柄で、このグラバーさんが教えてくれたのです。
グラバー園には、グラバー邸をはじめとして、ゆっくり歩いて一時間かかるほど、いろいろな建物や植物が咲き誇る庭園があります。勿論、グラバーさんと親交があった坂本竜馬コーナーもありますよ。
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オランダ坂 異国情緒漂う居留地跡の坂
長崎の居留地にある坂道は、どこもみなオランダ坂と呼ばれております。
昔より長崎は、出島貿易の関係上、オランダ人との付き合いが長く、オランダ人のイメージがものすごく強かったのです。開国の後、イギリス・フランス・アメリカ・ロシア・プロシアなどと世界各国から外人さんが来る様になり、外見を見た時“紅毛碧眼”であるため、誰がどこの国の人か区別出来なかったそうです。その時、長崎の人は面倒くさくなり外人さんを見たら「あん人達やあ、オランダさんに間違いなかばい」と言い、外人さんが通る坂道をオランダ坂と呼ぶようになりました。
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孔子廟 中国歴史博物館
明治26年(1893)建立。中国人が海外で建造した唯一の孔子廟。中国政府、山東省曲阜(きょくふ)孔子廟の助力を受けた昭和57年(1982)の改築によって、中国華南と華北の建築様式が合体したユニークな廟宇が誕生した。
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出島商館跡 鎖国時代唯一世界に開かれた
長崎の出島は、キリスト教の布教を阻止するために、徳川幕府の命令により扇形に造成された人工島で日本唯一「世界に開かれた窓口」だったのです。この島に上陸した外人さんは、許可無く二度と島外に出られなかったので「海の牢屋」とか「体裁の良い牢屋」と呼んでいたそうです。
出島に来る外人さんは、単身赴任が原則であり外人さんと日本遊女のロマンスが残っております。一番有名な話が「シーボルトと日本人妻お滝さん」です。他に「遠山に金さんのお父さん」や「清水次郎長」のエピソードも紹介します。
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思案橋・丸山
往来者が行こか戻ろか思案した橋
当時、長崎の丸山は日本四大遊郭の一つであり、そこへ遊びに行くには大金がいる、一方家では女房や子供がお腹をすかして待っている。どちらにしようかと散々悩んだ場所の橋が、行こか戻ろかの思案橋です。
それから、坂本竜馬の刃傷で有名な料亭の花月もこの丸山の中にあります。
☆長崎甚句花あ~のお~丸山あ~あ~
恋路のお~里にい~
行こうかあ~戻ろうかあ~あ
イヨ!思案あ~ん橋しい~い。
道中歌います。
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崇福寺 西日本随一の文化財を誇る唐寺
長崎には国宝が三つ有り、この崇福寺にはその内の二つ(太雄宝殿・第一峰門)が有り、もう一つが大浦天主堂です。
崇福寺は寛永6年(1629年)長崎在留の福建省福州府地方の人達が寺建立の公許を得て、唐僧逸然を開基として出来た禅寺です。
もともと、航海安全を守る媽祖様(女神)を祀るためにつくられたお寺です。
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眼鏡橋 日本最古のアーチ式石橋
中島川に架かる我が国最古の石橋で、1634年の架設です。中国のお坊さん黙子如定が造った橋で、双円アーチとし、下を流れる川の表面に影が映る事で眼鏡状の形となり、眼鏡橋と呼ばれ親しまれております。川には、鯉、フナ、ボラ、亀などが気持ち良さそうにス~イス~イと泳いでおり旅の疲れを癒してくれます。
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鎮西大社 諏訪神社 長崎くんちの大舞台
長崎の氏神であり御神体は出雲大社の大国主命の息子建御名方命です。十月になると日本三大祭りの一つ「おくんち」が始まります。文化5年(1808年)フェートン号事件が起こり、時の長崎奉行はその責任をとって自刃し神社拝殿左側に図書明神(康平社)として祀られております。その偉人とは、長崎奉行松平康平であり、オランダ商館長がヘンドリック・ドーフです。
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日本二十六聖人殉教地
豊臣秀吉の命により、1957年2月5日水曜日、日本で最初に26名のキリシタンが処刑された場所です。京都から長崎までの850kmを29日間歩いて連行され、この丘で磔の刑により処刑されたのです。最年少が12歳のルドビコ茨木で、この子供が残した最後の言葉が「つかの間の命より、永遠の命を選びます。お武家様もキリシタンにおなりなさい。共にパライソ(天国)に参りましょう」と言い笑顔で殉教したそうです。
南山手にある国宝大浦天主堂は、この二十六聖人への祈りを捧げるために建てられた天主堂で、今でも多くの人達が国内、外から訪れられています。
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片足柱鳥居 原爆の脅威を伝える鳥居
山王神社の第二の鳥居で、原爆にあい真二つに折れたものです。階段を上がると、左側半分がそのまま残骸として残っており、爆風の強烈さというものが実感でき、原爆の脅威を物語る遺構として重要な役割を果たしております。
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原爆資料館 原爆の脅威と平和を体感できる
この資料館には、第二次世界大戦にまつわる歴史的な真実の被爆写真集や遺品等が展示してあります。猛烈な爆風、強烈な熱線、そして恐ろしい後遺症を残す放射線(黒い雨)。生身の人間が耐えられるはずがありません。今でも被爆にあわれた人々が、闘病生活をされており、一生懸命地球上の平和の為に活動されております。この様な悲惨な戦争を二度と繰り返してはなりません。見る人全ての家族のためにも。
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爆心地(原爆公園)
昭和20年8月9日午前11時2分長崎市松山町171番地のテニスコート上空490mの所で、人類史上広島に続いて二番目の原子爆弾が炸裂し即死者73,884人、負傷者74,909人で、当時の長崎の人口が約24万人であり3分の1の人が亡くなり、想像を絶する地獄と化してしまいました。この原爆公園には、原爆落下中心之標と原爆殉難者名奉安箱が設置してあります。被爆64年後の今でも大勢の被爆者が亡くなられておりその奉安箱には昨年の8月9日の原爆記念日の日までに亡くなられた方々の総数が記されております。145,984人と。
平和公園 平和を願う祈りの空間
平和公園の場所は、元、浦上刑務所であり、監守や服役の人達134名がおられましたが、原爆により全員亡くなられました。その後、公園内に島原の彫刻家北村西望先生が、国内、外からの浄財をもとに平和記念像を建設しました。毎年、8月9日の原爆記念日には、世界各国から人々が集まり、平和記念式典が行われています。それは、原爆犠牲者慰霊と世界恒久平和を祈願するためです。そして、私も全ての人達が平和で幸せに暮らす事が出来ますように案内人(語り部)の一人として
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如己堂 永井隆博士の精神を宿す記念館
この場所は、元、浦上地区の帳方(キリシタンのリーダーの事)の屋敷後で秘密教会でもありました。「長崎の鐘」で有名な島根県出身の永井隆先生はここで帳方の子孫みどりさんと知り合い結婚しました。
8月9日の原爆により、みどりさんはここで亡くなり、同じ場所に「如己堂」と呼んだ新居が建ち、先生と二人の子供さん(誠一兄さん、カヤノ妹さん)は、この家で生活を始めました。如己堂とは「己の如く隣人を愛せよ」という意味です。しかし、先生も医学部で被爆にあっており、子供達、戦災孤児の為に献身的な活動をしましたが、昭和26年5月1日、43歳で永眠されました。「白バラの花より香りたつごとく、この身はなれて昇りゆくらん」永井先生の辞世の句です。
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浦上天主堂 弾圧に苦しんだ浦上信徒が築く
小高い丘の上にある浦上天主堂からは、今もアンジェラスの鐘が聖母マリアに捧げられながら、永久の平和を祈るかの様に浦上地区に鳴り響いております。
浦上地区では、明治元年(1868年)日本で最後の弾圧となった浦上四番崩れで信徒総数3,414名中、613名が殉教し、その後の原爆では約8,500名の信者が被爆死されました。この浦上天主堂は、こういう苦難の歴史がある天主堂なのです。これから先も、平和を語り継ぐためにも浦上天主堂の「長崎の平和の鐘」を鳴らし続けて欲しいと思います。
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